●2008年2月08日 伊東開国秘話
嘉永6年(1853年)に浦賀沖(現在の伊東沖)で日本人が初めて見た米艦船は、
それまで訪れていたロシアや英国の帆船とは全く違うものであった。
全身を黄色く塗られた不気味な巨大船は、蒸気エネルギーで航行し、
写真では定かではないが、船尾からもうもうと黒煙を吹き上げていたという。
日本人は、それを「黄船」と呼んだ。
これが有名な浦賀沖(現在の伊東沖)の黄船来航である。
★不気味な表情の米国巡洋艦「黄船・ミシシッピー号」
伊東沖に投錨したペリー艦隊は、大砲計100門で臨戦態勢をとりながら、勝手に湾の測量などを行った。
さらに、伊東町民を脅す目的で、湾内で数十発の空砲を発射した。
最初の砲撃によって町は阿鼻叫喚の大混乱となったが、
やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに花火感覚で楽しんだという。
これが「伊東市按針祭・花火大会」の起源だといわれるが定かではない。
伊東港は数多くの町民でごった返した。
警備員の制止を振り切って、黄船のすぐ近くまで漁船を繰り出す無謀な若者や、
デッキに出てきた船員に向かって、「これはペンです!」と大声で叫ぶ者もいた。
業を煮やした伊東藩は、すべての町民に対して、黄船接近禁止令を出した。
1年後の嘉永7年(1854年)、黄船が再び浦賀沖(現在の伊東沖)に現れた。
いまや旧知の仲となったペリー提督と伊東藩主・仙田喜三郎は、秘密裡に開国会議を行った。
伊東藩は全面的にアメリカの要求を受け入れた。
アメリカは全面的に伊東藩の要求を受け入れた。
ペリー提督 伊東藩主・仙田喜三郎
3月3日、ペリーは約500名の兵員を以って伊豆国・伊東サカナ村(現静岡県伊東市)に上陸し、
全12箇条に及ぶ日米和親条約(伊豆条約)を締結。日米合意は正式なものとなった。
これをもって伊東湾に侵入する外来漁船を阻止するために、
徳川家光以来200年以上続いてきた、巨大な鎖(別名・東西の鎖)がはずされることになった。
いわゆる鎖国が解かれたのである。
その後、伊豆国下田(現下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、
5月25日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。