まえ  つぎ 日記INDEX

10月11日


薔薇の日々に、お別れを。

先日、丹精こめて育てた薔薇を成木ごとすべて差し上げた。

白薔薇を中心とした庭造りに励み、熱中した時間は、
1997年から今年10月まで、その間、約2500日。
ホワイトガーデンと名付けた庭から、あっさりと薔薇が消えてしまった。

その人は、薔薇の季節になると垣根越しにそっと見ていた。
いや、食い入るようにウチの薔薇を見つめていた。
あまりに真剣に見ているので「そこではナンだからお入りになりませんか?」

その人は、杖をつきながら、ゆっくりした足取りで入ってきた。
薔薇の花ひとつひとつを愛しむように眺めては小さな溜め息をついた。
花びらを手に取り、匂いを確かめ、祈るように花を見つめた。

よく晴れた秋の午後。妻と妹は留守だった。
その人は遠慮していたが強引にお誘いして、コーヒーを煎れ、テラスで飲んだ。
飲みながら「昔の話」を聞いた。長い話だった。とても長い話だった。

こんな昔話をして、ごめんなさい。退屈でしょ。
言葉もなかった。なんと返事をしてよいやら…。
私は、ただ沈黙するばかりだった。

それは、ひとりの女性の壮絶な薔薇の物語だった。
そして、そのとき、ウチの薔薇をすべてこの女性にあげようと決めた。
白い薔薇を、愉しみ、懐かしみ、慈しむのは、この人しかいないと思った。



想えば夢のような日々であった。

花を知らぬ私が、その虜になり、奴隷にもなろうと決意した花の王、薔薇。
芳潤な色香に、陶然とする花弁の造形に、妖艶な蕾のふくらみに、
人間に媚びて咲く凡百の花々を一喝する、鋭く、太い棘に、私は魅了された。

3月から夏場を除き11月まで、玉座にでんと座りつづける薔薇。
緑葉が美しいギボウシや悪心を抱いた害虫を寄せ付けないハーブを従え、
朝な夕なに凛と咲く高貴な白い宝石たち。

圧倒的な生命力と絶対の美学を内包している花の中の花。
大量の肥料と繊細な慈しみを絶え間なく求め続ける傲慢で不遜な花。
花の頂点に君臨するために極限の美を具現化してみせる耽美主義の花。

春と秋、手練れの虫たちをも籠絡する甘美な色彩と香り。
その美しさに幻惑され夢見心地になる心豊かなひととき。

その分、寸暇を惜しんで世話をしてきた。
すべてが報われる至福の瞬間を待ちわびながら。

月3回にも及ぶ消毒。劇薬を浴びて噎せ返る春。

雨に濡れた3日後に決まって発病する黒点病にうんざりする梅雨時。
想いが込められた清潔な水を絶対に切らすなと脅されつづける夏。

これでもかこれでもかと肥料を注ぎ込んでもなお、
強欲に肥沃な土壌を求め、水はけは完璧にせよと言い募る、
厚かましい贅沢趣味に愛想もこそも尽き果てる秋。

ようやく眠りついた冬でさえ微かな肥料と寒さ対策を求める。

だからこそ、薔薇には、徹底した美しさがある。

来春、新しい庭で、よく肥えた土と甘やかな光と風を配下として、
究極の白花を咲かせてやってくれ。薔薇の底力を見せてあげてくれ。



私は、薔薇が消えた午後の庭を眺めている。
シャラの枝が長い長い影を芝生に落とし
ハナミズキの枯れ葉が舞っている。
高い空には白い月が浮かんでいる。

日々、見慣れた庭に在るべきものがない。
愛情を注ぎ込んだ分だけ想い出は強く深いものだ。
咲く花が何ひとつない庭を見ながら、
私は、あの人の話を想い出し、またも呆然とする。

いま、ぴったりの音楽が流れている。
マスカーニの傑作「歌劇カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲。
人妻を愛した若者の悲劇を描いた物語。

同じようにあの人を愛した若者は、57年前にこの世を去った。
帰路の燃料を積まない戦闘機に乗りこみ、そのまま散っていった。
新妻だったあの人は、若者からもらった白薔薇の苗木を育てた。
遙か北の土地へ越しても、その薔薇は咲きつづけた。

その後…。

大声で叫ばずにはいられない痛烈な悲劇が彼女を襲った。
来る日も来る日も闇に向かって泣きつづけた。
それでも許されずに隔離幽閉された孤独で苛酷な生活。
残酷な宿命に、必死で抗い、堪え忍び、生き続けてきた女性。

残された時間を、有意義に、できるだけ愉快に、
渾身の力を振り絞って生きようと決めた、
とても老いた、とても美しい女性のために、
来春、すべての白薔薇がみごとな花を咲かせますように。

私から、彼女に、心をこめて白い薔薇を。

さよなら、白い炎よ。



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