まえ  つぎ 日記INDEX

7月18日


月を見上げるカブトムシ。

1969年7月。
ウチから6軒ほど離れた家の少年が屋根に上がって、
弟といっしょに白い月を見上げていた。
そこには人類初の「月を歩く人間 ムーン・ウォーカー」がいるはずだった。

その年の夏は、そんなに暑くなくて、ひんやりした日が多かったような記憶がある。
だから少年は大好きなアイスクリームを弟と奪い合うようなこともなかったはずだ。
少年は虫捕りが得意でよくウチに来ては、蝶やクワガタなどを見せてくれた。
昔は雑木林に行けばと昆虫がたくさんいた。
いまのように昆虫をデパートで買う必要はなかった。

彼は昆虫採集は好きだが決して殺すようなことはしなかった。
虫ピンでとめて美しい標本を作る。そんなことは絶対にしなかった。
苦労して採ってきたカブトムシでさえ、しばらく家で飼ってから、
必ず元の雑木林に返していた。なぜ、逃がすのか少年に聞いたことがある。

私はすでに昆虫なんかには興味のない年齢だった。
生きている人間、それも女性に興味津々の年頃だったのだ。
だってカブトムシは、口紅もつけない。
白いブラウスを通してブラジャーが透けて見えることもない。
ましてや、いい匂いもしないし、にっこり微笑んでスカートを夏風になびかせて、
坂道を気持ち良さそうに自転車で下っていくこともないのだから…。

少年は答える。
生きているモノを殺すのは可愛そうだ。
自分が虫ピンでとめられたり、手足をちぎられたらイヤでしょ。
虫になって考えると、よくわかる。だからボクは殺さないんだ。
少年より年上だった私はヘンに感心したのを憶えている。
弱いモノを殺さないという人としての善の道理に感心したのではない。
「虫になって考えると、よくわかる」。少年の想像力。

いま、想像力が乏しい人が増えていると思う。
ムシの立場になってモノを考えられる少年はいるだろうか。
友人に自慢したいだけで高価なクワガタを母親にねだる子供。
数学の公式や英単語はぎっしり詰まっていても、
想像力というもっとも強力で無尽蔵なパワーが不足してはないか。
TVゲームならリセットすれば何回でも生き返るが、
現実の生き物は、いちど死んだら二度と生き返らないのだ。

大切な友達に気を遣ってあげる、やさしい心はあるか。
自分より弱い者をいじめるような卑怯なマネはしてないか。
目上の人間にきちんとした言葉で挨拶はできるか。
そして、徒党を組まず、ひとりで堂々と戦えるか。
もしウチに子供がいたら以上のことをクリアしていれば、
どこへ行こうと、何をしようと、構わない。

その少年は18歳で北海道へ渡り、獣医師となって帯広に住んでいる。
子供は4人、すべて男。彼の子供たちも動物が好きだと聞いた。
長男を産むとき奥さんが大変だったらしいが、彼は牛の出産に立ち会っていた。
付け加えるならば、この人も基本的にはバカなので、
ウチの「探偵帳」の大ファンである。とくに難産だった奥さんが…。


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★月のひつじ(The Dish)劇場公開中(解説文は映画サイトを参照した)

1969年7月。
オーストラリア、ニューサウスウェールズ州パークス。
宇宙科学者たちがアメリカの巨大パラボラアンテナをバックアップするため、
電波望遠鏡を準備して、そのときを待っている。
NASAは人類初となる月面歩行を生中継で世界に配信しようとしていた。
カリフォルニア州ゴールドストーンに立つ巨大アンテナ…。
しかし打ち上げ予定日が変更になり、その大役を任せられたのは、
オーストラリアの田舎町パークスにある予備的パラボラアンテナだった。

かくしてアームストロング船長の月面歩行映像は、
オーストラリアの田舎町から世界中に発信されることになる。
羊しかいない国で、それはできるのか。技術的な問題はないのか。
直径63メートル、重さ1,000トン。パークスのアンテナ「ディッシュ」は、
アポロ11号を完璧に追跡し、月面着陸の瞬間と人類初のムーンウォークを…。
この映画は事実に基づいている。

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そして、同年同日…。
雑木林に涼やかな夏の風が立つ。木の葉隠れの光りが揺れている。
蝉の鳴き声が滝のように落ちてくる。
少年の手から解放されたカブトムシは、そっと白い月を見上げた。



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