まえ  つぎ 日記INDEX

7月9日


伝説の狙撃手、死す。

なぜか私は狙撃手が好きである。スナイパー、いい響きだ。
狙撃手が登場する映画や冒険小説は必ずチェックしている。

敵を狙撃するまで、何時間でも、何日でも、その場に待機しつづけるスナイパー。
そこが例えヒルの大群が生息する雨の沼地であっても、
零下20度。凍える氷原のわずかな窪地あっても、
敵に発見されたら逃げ場のない樹上であっても、
30cmにも満たない枝にまたがり息を殺して敵を待つ。
狙撃手の孤独な闘い。一瞬の仕事を果たすためのストイックな沈黙。

スナイパーが主役の映画は「スターリングラード」「山猫は眠らない」が有名。
やや系統は違うがフォーサイスの「ジャッカルの日」がある。
敵の女性狙撃手が良かったキューブリックの「フルメタル・ジャケット」。
そして冒険小説の世界では、ご存知「狩りのとき」のボブ・リー・スワガー。
コミックでは泣く子も黙るデューク東郷、ゴルゴ13…。


●7月9日朝刊の訃報欄にこんな記事があった。

泉井守一氏(元大洋漁業取締役)、肺炎で死去。97歳。
(以下はネット検索による新聞記事を参考にしました)

男は高知県室戸市の漁師の家に生まれた。
室戸小学校を卒業後すぐに漁船に乗り込む。
その後、捕鯨の名砲手として南氷洋などで活躍する。

昭和30年代、日本が世界の捕鯨をリードするころには、
伝説の名砲手として国内捕鯨界のけん引役となる。

昭和2年、22歳の時「ドンガラ(不命中)」の連続から砲手人生は始まった。
どんな名人でも最初はシロートだった。撃っても撃っても当たらない日々。
しかし鯨探しでは負けたことがない。海の光りを宿した真鍮色の瞳は、鯨を求めて輝く。

そして、泉井は世界No.1のホエール・スナイパーとなる。
鯨の動き、活動範囲はもとより、潮目を読む才能に長けた彼は、
何かに導かれるかのように鯨のいる場所へ船を誘導した。
彼に狙われた鯨は、そこで天寿を全うすることなる。

昭和29年、砲手として初めて大洋漁業(現マルハ)取締役に就任する。
だが、その後も南氷洋や内地操業で鯨を追い求め続けた。
彼にとって鯨のいる海が生きる場所であったに違いない。

また鯨だけでなく後に主流となるマグロ漁業の漁場開拓にも貢献した。
昭和53年3月、顧問を最後に同社を引いた。

現代に舞い降りた羽刺し(古代の鯨漁法)らしく、鯨を敬う気持ちは人一倍強かった。
西洋の捕鯨反対論を憂慮、鯨油しか抽出しない欧米と違い、鯨資源を無駄なく使う、
日本の捕鯨は「野蛮ではない」というのが口癖だった。

昭和63年、国際捕鯨委員会(IWC)による商業捕鯨全面禁止の決定に悔しさをにじませながら、
「再開の日は必ず来る」と強調。捕鯨技術の継承を主張してやまなかった。
引退後も多くの室戸出身学生の面倒を見るなど、親分肌の名砲手は、陸(おか)に上がっても慕われていた。

生涯2万発の砲を撃ち捕鯨頭数は1万304頭。
取締役に就任してからも、「おい、のいちょけ!」と、
新人の砲手に手ほどきを兼ねて撃つことが多かった。

船乗りとしても厳しかった。細かいことは教えなかったが、
後進育成への思いは熱く、多くの室戸出身砲手を育て上げた。
海と鯨のことはなんでも知っている神様のような存在だった。
名砲手は海の男の条件として「目先が利く、きちょうめん、負けじ魂」を挙げた。


泉井守一氏、97歳で永眠。

最後に見た夢は、海を切り裂いて南氷洋を疾駆する己の勇姿だろうか。

その海の向こうに、最後の鯨は、見えただろうか。合掌。



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