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7月29日:カステラ祭り


葡萄牙と書いてポルトガル  ←「ぶどう狩り」と読む人が多い


これをふまえて。




村は、祭りだ!

高知県須崎市で最高気温38.3度を記録した、7月29日・土曜日。

静岡県下田市で「カステラ祭り」が盛大に開催された。


60歳以上の女性ペアが、樽の上で徹夜で踊る「カステラ祭り」は重労働だ。

この祭りは、別名「テングサの出荷作業」とも呼ばれ、テングサ農家は忙しい。

天日干ししたテングサを樽に入れ、地元の熟女が二人ひと組で丁寧に踏み固める。

「ポルトガル踏み」と呼ばれる独特の作業で、

ダンスを踊っているように見えることから、「てんぐさ・ダンス」とも言われている。

遠藤まゆみさん(88)は、「今年もおいしいカステラ納豆が食べたい♪」と笑顔を見せて、

伝統のポルトガル・ステップを踏んでいた。


「カステラ祭り」の歴史は古く、安土桃山時代に始まったとされる。

1584年、若いポルトガル人が伊豆半島最南端の下田にやって来た。

南蛮人の突然の来訪に、地元の人々は、上を下への大騒ぎ。

一方の若きポルトガル人は、落ち着いていた。

笑いながら手みやげを配り、愛想をふりまいた。


どんな時代でも、プレゼント攻撃は効果的だ。

日ポ友好の決め手、それは西洋マンジュウだった。

日本人が初めて目にした南蛮渡来のお菓子だった。


ポルトガルのマンジュウは、伊豆長岡などでよく見る、

温泉饅頭ではなく四角いカタチをしていた。

衛生面の管理が徹底しているのか、薄紙がかぶせてあった。

これです。


下田の人々は争って食べた。うまい、うまい、うますぎる!

大人も子供も奪い合って食べた。むさぼり食った。

西洋マンジュウは「カズテイラー」と言った。(注:日本表記では「加須底羅」)


下田市須崎村の村長・中田弥五郎さんが、若きポルトガル人に聞いた。

ほわっと・いず・じす?

ふー・あー・ゆー?

はう・おーるど・鮎?


英語圏ではないのに気のいいポルトガル人は気さくに答えた。

これは「カズテイラー」というお菓子です。

ポルトガルはリスボン近郊に住む、仕立て屋のカズッカチオが考案しました。

テイラーのカズッカチオが作ったお菓子=カズテイラー。

あんだすたん?


日本の皆の衆に「カズテイラー」の作り方を教えて進ぜよう。

下田婦人会の「じもと創作料理研究会・つ星」、

略して「じもティ・ファイブ」のおばさんたちは、あわててメモした。


お菓子の原料を聞いて、ビックリ仰天!

なんと伊豆のあちこちで採れる「テングサ」だった。

トコロテンの原料、あのテングサだった。


「カズテイラー」の作り方は、こうだ。

てんぐさを、洗って、干して、蒸して、また洗って、干して、蒸して、また洗って、干して、蒸して

てんぐさを、洗って、干して、蒸して、また洗って、干して、蒸して、また洗って、干して、蒸して

てんぐさを、洗って、干して、蒸して、また洗って、干して、蒸して、また洗って、干して、蒸す!

この地味な作業を十月十日つづける。

すると、テングサを入れた樽の中から、

えもいわれぬ甘い香りがして来る。食べ頃である。

カズテイラー、プリーズ!


日本初の「カズテイラー」を、ポルトガル人が試食した。

ぐえ、ぐえ、ぐえーーーーー!

あわてて吐きだした! 

吐き出したが、遅かった。

若きポルトガル人は、その場で息絶えた。即死だった。


「カズテイラー」は腐っていた。薄気味悪くネバネバしていた。

十月十日も頑張って、婦人会のみなさんが作った「和製カズテイラー」は、

ポルトガル人を一発で殺す、殺人兵器になっていた。


と、そのとき、人生に絶望した自殺志願の青年が、

コレを食って死んでやる! と叫びながら、ビルの屋上で、

腐った「カズテイラー」を炊きたてゴハンに乗せて食べはじめた。


誰も止めることはできなかった。

青年は、もがき苦しみ、激しい嘔吐を繰り返し、

みるみる衰弱し、全身を痙攣させ、三日三晩高熱にうなされる・・・こともなく、

とてもおいしそうに「和製カズテイラー」を食べ終えて、こう言った。

デリシャス!

これは奇跡の醗酵食品だ!

納豆に似ている!



ポルトガルの乾いた季候のもとでは、テングサはカステラになるが、

伊豆半島のような多湿な土地では、テングサは醗酵食品になるのだった。

それは下田市が世界に誇る自然食品「カステラ納豆」が誕生した瞬間だった。

おりしも南蛮貿易が盛んに行われた安土桃山時代後期のことだった。


時は過ぎ、時代は変わり、人々の気持ちは移ろい、

下田市の郷土料理「カステラ納豆」は、いつしか忘れ去られた。

人々はテングサよりも、大豆で作った「普通の納豆」を好むようになった。

カステラ納豆は絶滅寸前だった。

時代の彼方へと消えていく、幻の納豆になりつつあった。


江戸時代中期、伊豆の山奥に住む少数狩猟民族「長崎屋」の古老たちが、

テングサを原料とするカステラを細々と作り、閏年の正月に食したというが、

「スーパー長崎屋」が消滅してしまい、その存在を知る者はいなくなった。

「カステラ納豆」は、この世から完全に消えた。


ところが!

時代が平成になると「カステラの長崎屋」が現れ、スローフード熱の高まりもあって、

秘伝「長崎屋のカステラ納豆」が、世界中で脚光を浴びることになった。

今年5月23日、ポルトガル出身の自然主義オヤジが、

ジュネーブのWHO=世界保健機関の総会で演説した。


ジャポネには奇跡のカステラがある。

コレを食べないものは人間ではない、サル以下だ。

いや、イノシシ以下であろう。


これを契機に「カステラ納豆」は、世界中に知れ渡った。

いまでは日本のGNPの29%を占める国内最大の輸出品目になっている。


そして、世界に「カステラ納豆」を広めた、ポルトガルのオヤジとは誰あろう、

カステラの父「仕立屋カズカッチオ」の子孫にあたる「ロハス・カズカッチオ・7世」である。

最近は、カステラをたくさん食べて、健康的で、環境にやさしい生活のことを、

彼の名前を取って「ロハス的生活」というようになった。



こぼれ話1

カステラを日本に伝えた若きポルトガル人は、

死ぬ半年前、北海道に住む女性にお釜をプレゼントした。

これで、おいしいゴハンを炊いてください♪

できるならば、オレの嫁になってください♪

その釜は「バスコ駄釜」として、いまでも函館歴史博物館に展示されており、

ナショナルの高温スチームIHジャー炊飯器「銀シャリくん」の原型となった。

日本にカステラと炊飯ジャーを伝えた、若きポルトガル人の名は、

バスコ・ダ・ガマ」という。


こぼれ話2
日米下田条約が締結された下田市の了仙寺は、地元では「カス寺」と呼ばれ親しまれている。


こぼれ話3
人生に絶望した自殺志願の青年、日本で初めてカステラ納豆を食べた青年は、

後に黒船に乗ってアメリカに渡り、カステラ納豆を改良して、

世界一のファーストフードを完成させた。

彼の名前は、幕度鳴門という。


このように複雑に絡み合った歴史の因果と、食にかける情熱の旋律、

摩訶不思議な運命に翻弄された、悲劇の主人公「カステラ納豆」には、

いくつもの悲しい物語が隠されていたのである。



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