突発的、東京脱出。求む、温暖・閑静・庭付き中古一戸建て。小さな畑。


1995年11月。

疲れていた。三人それぞれが、それぞれにキツイ病気を抱えながら、猛烈に働いていた。

三人ともギョーカイにいて、ほとんど休むことなく働き、もうヘトヘトだった。

やめよう、こんな生活は。このまま突っ走ったら、多分、誰か死ぬ。

バブルでおいしい思いをさせてもらい、ある程度の資金ができたから、どこかでのんびり暮らそう。

できれば二度と働かずに。よし、明日から物件探しだ。そうしよう。

ある日、ポンと生活を変えてしまう。そんなことウララカ家にとっては、朝飯前だ。      

ウチは子供はいないし、妹は独身だから実に身軽である。ともに両親はすでに他界。いつでも動ける。

ウララカ家の場合、ひとつ目標を決めたらスピーディに物事を進めなくては気が収まらない。

あとで後悔することになるが、土地を探して、家を建ててなどという、まどろっこしいことは、しない。

中古の比較的きれいで、3人が暮らせる広さの家ならば、それで充分。

なんか安上がりに越せそうな感じもするし(これ重要)。ただし条件がある。

近所づきあいを強制されないこと。日当たりが良いこと。隣りに原子力発電所がないこと。これだけ。


1996年2月。

それはもう寒い。河口湖の大きなログハウス。あたり一面、雪だらけ。

建物はハンドカットの丸太小屋だからそれなりにムードがあるが、

山の中だから永住するには、あまりにも不便そう。妻はさっきから押し黙ったまま。

案内の不動産屋も困った顔をしている。

いやな気分のまま東京に帰る。その晩、私は高熱をだす。すごい風邪。

その前にも八ヶ岳の物件で、でひどい目に遭っている。寒い所は、やめよう。もう若くもないし。

そうだ、伊豆へ行こう。温かくて、いいぞ。温泉もあるし、魚もうまいぞ。

毎日ホンワカのほほん暮らしだ。うん、そうしよう、それがいい。

1996年3月

河口湖でエライ目に遭ったので、少し温かくなった3月、伊豆へ物件探しにでかける。

そうしたらなんと伊豆でも何十年ぶりという大雪の日に遭遇。なんてことだ。

別荘地は急な坂道を昇らねばならないので、普通車では案内できないと不動産屋は言う。

では私の四駆で行きましょう。渋る不動産屋をつれて強引に物件案内させる。

自慢のレンジローバーで雪道ガンガン。スキーのジャンプ台みたいな斜度をものともせず昇っていく。

不動産屋おどろいて「さすが、パジェロは違いますね」。

夫婦二人暮らしの小さな物件は数多くあるが、当時、3人がある程度余裕を持って

暮らせる物件は少なかった。「1億円以上出せば、すごいの、ありますよ」と不動産屋。ムカつく。

こちらも負けじと見栄を張って、それなりの購入価格を提示したが、候補物件は3軒しかない。

Aは山の頂上みたいな場所。伊豆の海をまるごと展望できる。6LDK各部屋にトイレ付き(アホか)。

相当に気に入ったが調べてみたら、バブル物件で抵当がびっしり、権利関係がややこしい。

Bは落ち着いた純和風。わざわざ秋田から材木を仕入れ、大工まで呼び寄せて建てたらしい。

茶室などあって実に凝った造りだ。たかが家に物好きもいるものだ。

夫婦二人で静かに暮らしていた家なので、部屋数が足りない。どうしてもあと一部屋欲しい。

だって妻とは、長い間、寝室は別だから。睡眠はひとりで、イビキに邪魔されず。

最後のC。もうあとがない。こっちは明日にでも引っ越したいんだから。部屋数よし。

陽当たりは大雪で不明。南向きですという言葉を信用するしかない。

別荘地だから近所づきあいは特になし。庭もそこそこ。それと自家用温泉付き。

家にいながら毎日温泉三昧だ。いいなあ。一階のリビング35畳が広くて気持ちいい。窓も大きい。

ただし外観は別荘地に立つ家とはほど遠い普通の家。ムードまるでなし。

安いタイル貼りの3LDK。敷地120坪、延べ床面積40坪の標準サイズ。

築6年、まだまだきれい。いいと思うよ。それとなく売る理由を聞けば、バブルはじけて、例のごとし。

相手の足元見るようでイヤだったが、ちょっとだけ値切る。決めようか。妻と妹、賛成。よし決めた。

はい、買います。決断が早いのはウララカ家の美点であり最大の欠点。

この即断即決により、たっぷり後悔するはめに。ウララカ家は、おっちょこちょい。

1996年4月15日

引っ越し。これまでの長い東京生活をあっさり捨てて、今日から伊豆ライフ。楽しみだ。

新しいことを始めるのは、いつも楽しいものだ。

バイオレットカラーの派手な市役所で、住民票の変更届けをはじめ、

印鑑証明、保険証、免許証、電話、電気、水道、ガス、温泉などの手続きや名義書き換えがつづく。

ここは郵便屋さん用の別荘地アドレスと、銀行や市役所など公用書類用、ふたつのアドレスがある。

8ケタの長い番地が覚えられなくて、そのたびにおろおろする。

荷物の片づけも一段落。妹は水がおいしいと歓び、妻は芝生がきれいと庭駆け回り、

私はこたつで丸くなるってか。2階のベランダから見える海が光っている。

隣りの雑木林を吹き抜けてきた風が、庭を横切っていく。名前も知らない野鳥が近くでさかんに囀っている。

ウララカ家にあいさつに来てくれたのか。それはまた、ごていねいに。

夜、星が冴えに冴える。伊豆高原の四月。新参者です。どうぞ、よろしく。

1996年5月

伊東市の地理をマスターするために、毎日、あちこちを走り回る。新人のタクシードライバーみたい。

伊東市をおおまかに分類すると、海近くの市街地、海と山の中間地点区域、山沿いの地区(別荘地含む)に

分かれるのではないか。国道135号線沿いに、一方は下田方向へ向かって、一方は山に向かって町は広がり、

電車は伊東駅から南伊東・川奈・富戸・城ヶ崎・伊豆高原の順で伊豆急が走っている。

最初は道もよくわからなかったので、町へ行くのに必ず135号線を使った。

ゴールデンウィークなど大渋滞で、日常の買い物にも難儀した。私は、渋滞と借金が大嫌いである。

地図をグッと睨み、荻地区から矢代田のトンネルを抜けて町に出る道を発見。15分で伊東駅に着いた。

以来、このルートを「伊東裏ルート」と呼んでいる。地元以外の方は地名を出されても

チンプンカンプンだろうが、本サイトは地元客優先なので、ごめんなさい。

家から、主な目的地、伊東駅、市街地、ショッピングセンター、図書館などへの所要時間は約15分。

「どこでもクルマで15分・伊豆高原うららか生活」である。渋滞はまったくなし。

ほぼ予想通り時間で目的地に到着する。運転のストレスがまったくない。

移住して最大の歓びがこれである。たまにノンビリした軽トラが走ってるが、これはご愛敬。

さて、妹の免許取得物語。クルマなしでも生活できないことはないが、たぶん、相当に不便だろう。

家からバス停まで歩いて3分。だがバスは来ない。全然来ない。待っても、待っても、あなたは来ない。

バス停で長い間待っているお年寄りを見かける。ほとんどが待ちくたびれて、しゃがみこんでいる。

バス待ち時間、これこそ時間の浪費というものだ。しかも運賃が高い。観光客もびっくり。

たまに知り合いの方がバス停にいると、声をかけてクルマに乗せてあげている。

お金を取ったら白タクになるから、むろん無料。お礼にとハムなどをいただき恐縮する。

なかなか始まらない妹の免許取得物語、いよいよ開幕。

以上のような生活環境なので彼女も免許を取得することにした。かどの台にある自動車教習所。

学科は、西日の当たる蒸し暑い自室で、ふうふう言いながら勉強して、なんとかパス。

問題は実技、運転である。なにしろ越してまもないから土地勘がない。

路上試験が近づいてもルートがわからない。先生が「はい、つぎは南伊東のイナバ木材」といっても、

どこにあるやら、さっぱり。南伊東がわからない。いつもルートを間違えて怒られていたらしい。

そこで彼女は一念発起。初夏とはいえ、伊豆のものすごい暑さと、強烈な紫外線のなか、

ひとり徒歩ですべてのルートを歩き通し、克明なルート・メモを作り上げた。

この頃、妹は虚弱体質で足も弱かったので、帰宅すると食事も摂らず倒れこむように寝ていた。

こんな時、決して手助けをしないのがウララカ家の家風である。自分のことは、自分で。

妻は、妹の分までゴハンを食べてニコニコしていた。なんという女だ。

で、彼女なりに苦労して無事免許取得。さっそくテストドライブ。

天城のてっぺん、東急ホテルまで乗せてもらう。私も妻もシートベルトはもちろん、

手に汗を握ってサイドバーをつかんでいる。なんだか道路の真ん中を走っているようで、コワイ。

妹の初ドライブを記念して、ホテルでランチを食べたが、妻も私もあまり食欲はなかった。

若葉ドライバーだけが「きょうは私のお祝いだからワリカンじゃないよね」。

「あのう、アイスティ、おかわりお願いします」などと、はしゃいでいる。

ウララカ家は、外食の場合、家族のメモリアル・イベント以外は、基本的にワリカンである。

それから一ヶ月後、まあ、そこそこ運転できるので、少しスピードを出せばと私はそそのかす。

いくら若葉マークを貼ってるからって、遅すぎないか。後続車両に迷惑かけるよ。

こう見えても、私は、世間に対して非常に気を遣って生きる男である。無神経な人間は大嫌いである。

よく「赤ちゃんが乗っています」というシールを貼ったクルマを見かける。

赤ちゃん乗せてるから、遅いの。そうですか。わかりますけど、それ免罪符に使ってません?

なんか釈然としない。それはキミの赤ちゃんで、ウチラの赤ちゃんじゃない。関係ないよ。

しかもよく見ると、まだチャイルドシートが普及する前としても、

赤ちゃんを胸に抱くようにして運転している。それ、殺人未遂だと思うよ。

あらら、赤ちゃん乗せてるのに、車内でタバコまで吸っちゃって、いけないママだ。

そっちが「赤ちゃんが乗っています」なら、こっちは「アホバカが、3人も乗っています」。

これだって、こわいゾ。なにするかわからんモンね。もともと子供なんか大嫌いだし…。

妻は、中学の卒業文集、将来なりたい職業のコーナーに、ひねくれて、

「絶対になりたくない職業・保母さん」と書いた女だ。だからウチに子供はいない。

私は、望む。「死にそうなオジイちゃん、乗ってます」というシールを貼った、救急車を見たい。

1996年6月

話が飛んだので、もどす。私の日記は、あちこちに話が飛ぶから、注意してください。

もっとスピードを出さんかい! 妹は、ここぞとばかりアクセルを踏み込む。

別荘地の坂道クネクネカーブを、教えたとおり、みごとなIN &OUTでクリアしていく。

うまいじゃないと言おうとした、そのとき、クルマは石壁に真正面から激突していた。

クラッシュ。ボンネットから白煙が立ちのぼる。幸い、負傷者なし。自損事故。

お気に入りシルバーのプジョー306は、死んだ。エンジンも、フレームまでも、すべてやられた。

修理屋に聞けば、その修理代180万円。バカみたい。

妹、ショックで泣き崩れている、かと思いきや「ステアリング切るのが0.4秒遅かった」などと、

F1ドライバーみたいなことを言っている。おまえなあ、しまいには殺すぞ。

初心者は、走るだけならできるが、強烈なパニック・ブレーキが踏めない。

タイヤから白煙がもうもうと上がるような事故回避のブレーキである。練習してほしい。

ウララカ家から、クルマが一台、消えていった。

もう一台、大型の四駆があるが、これは知ってる人は、知っている、超高級車(また、自慢だ)。

この日記の冒頭にも登場した、英国製のレンジ・ローバーである。

別名、四駆のロールス・ロイスと言われている。いちども言われたことはないが。

現在の新型モデルの前のヤツだ。と言えばクルマ通ならわかる。そして、きっと、あざ笑う。

私の旧型レンジ・ローバーは、驚いちゃいけないよ、税込み1000万円。ほんとなんだから。

1993年発売時は、そういうふざけたプライスをつけていた。それが翌年5月だったと思う。

なんと300万円も価格を下げて発売する。同じクルマですよ。立ちくらみして、倒れそうになった。

ローバー社が、メルセデスのゲレンデ・バーゲンに対抗して販売の増加を狙った価格戦略らしい。

それまで友人・知人、私のクルマを見るたびに、畏敬のまなざしであったものが、

この一件以来、すっかり冷ややかになった。私だって、妻からどれだけ責められたことか。泣きたいよ。

だが、レンジ・ローバーは、活躍した。どこへでも行けた。当時は街乗りヨンクが大流行で、

アウトドアなどまったく知らない、泥ひとつ着いていないヨンクをよく見かけたものだ。

フロントに大型のカンガルー・バーをつけて。荒野のひとつも走ったことあるのかい?

カリカリに凍った北海道の長い直線、雪深い信州の道なき道、原野、冬季通行不可の山岳道路。

斜度30度以上のガレ場の急坂、すべてなんなく踏破した。

極端に深くなければ、ちょっとした川なども軽く渡ってしまった。無敵だった。

冬、高速道路で信州のスキー場へ向かう国産四駆の軍団に、何回も、からまれた。

同じ四駆同士、こちらの実力を試してみようということか。金持ちケンカしたくないよ。

真後ろにピッタリくっついて、いつまでも離れない。こっちは四駆の王者らしく走りたいのに。

しつこいなあ。そう来るんですか、若者よ。すこし遊びましょうか。ユーミンも聴き飽きた頃だし。

私は、V8/4000ccのエンジンを眠りから呼び覚ます。待ってましたと、歓喜の咆吼。

それまでのノンビリ走行が嘘のように猛然と加速する。四駆の軍団も負けじと追走してくる。

向こうはガールフレンドが乗ってるから、いいとこ見せなくちゃ、いけないよね。がんばれよ。

140km/hくらいの速度で疾走する。100km/hでタラタラ走っている一般車はゴボウ抜き状態だ。

なかに威勢のいいのがいて、さらに速度を上げる。こんどは私がぴったり後ろに着く。離れない。

テール・トゥ・ノーズ、これだけの速度で車間は20cmほどしかない。プレッシャーをかけつづける。

最初に、ちょっかい出してきたのは、あんたらだかんね。オジサン、やるときは、やるよ。

そんな走行が30分ほどつづいて、雪をかぶった八ヶ岳が見える頃、彼らは、敗れ去る。

暴走スキー軍団が、はるか後方に姿を消していく。若者の挨拶なのか、2.3回、ライトのパッシング。

私は、お先に失礼とばかりに、さらに加速する。気がつけば速度計は182km/h(警察には内緒)。

いちどこの速度で妻と妹を乗せて走ったら、ふたりとも言葉を失っていた。

火がついたエンジンは燃えたままだ。いつもはメスにばかり狩りをさせている、

牡ライオンが、猛り狂って、獲物に襲いかかる、あの状態だ。おもしろかった。

あの頃は、そんな運転をしていたが、いまでは軽トラックに抜かれそう。ジジイになった。

無敵レンジ・ローバーには、欠点も数多くある。まず燃費が悪い。リッター3kmというところか。

笑いますよ。90?Pのタンクが一週間でカラになる。市内ばかりを運転すると、それがとくに顕著。

新型はどうか知らないが故障も多かった。考えられないような、くだらない故障が多すぎた。

ここでは沼津に行かないと修理工場がない。そのたびに天城を越えて…。もういやだ。売ろう!

ウララカ家は、モノに執着しない。それがどんなに高価であろうとも、モノはモノだ。

従って、モノに振り回されることもないし、モノを買うために汗水流して働くこともない。

ウララカ家が猛烈に働いてきたのは、自由な時間を、誰よりも早く手に入れるため。ただ、それだけ。

だが想い出はある。レンジ・ローバーに乗って、もっともうれしかったのは、

いつもは駐車場に入れるが、そのときは急いでいたので、ホテル・オークラの正面に乗りつけて、

老ドアマンにキーを渡したとき、彼がひとこと「いいお車ですね。お預かりします」。

あとで知ったが、フロントに立つ知人のホテルマンによると、あまたの高級外車を見てきた彼が、

クルマをほめることは、まずないと言う。そうかい、そうかい。私、なんだか幸せな気分です。

ローバーに、ほぼ3年間乗った。走行距離65.000km。代わりに国産のライト・クロカンを買った。

ナビをはじめ、ありとあらゆる装備・オプションをつけてもローバーを売った値段より安かった。

ありがたい。老後の資金が増える。燃費も良くて経済的。ハンドルはフニャフニャだが許そう。

プジョー306がクラッシュして以来、大きなクルマを運転できない妻が、久しぶりに運転席へ。

妻は、運転がヘタだ。縦列駐車はできない、後退するときはカメのようにしか動けない。

いまだかつて高速道路を一回しか運転したことがない。衝突事故の経験も豊富だ。

そんなヘロヘロ・ドライバーのくせに、外車好きな妻は、言う。

「だめ、私には合わない。もっと重いハンドルじゃないと。軽すぎて、コワイ」。

彼女は、長い間、ドイツ車に乗り続けていたので、あの重いハンドルに慣れていた。

実は、このひと言を、待っていた。ライト・クロカン一台では、生活が不便だ。

ふたりが買い物に行ってる間、タバコを買いたくても足がない。そりゃ、歩けばいいけどね。

クルマ好きな私は、燃える。「もっと重いハンドル」のクルマを探しはじめる。

まあ、最初から、アレにするしかないと決めていましたがね。伊東市内の外車ディーラーは、ただ一社。

私が好きなフランス車も、英国車も、ない。みんな沼津まで行かないと、ない。

Yディーラーのドイツ車といえば、メルセデス。ここからがウララカ家のアホバカ真骨頂。

3人とも、よれよれのTシャツ・短パン姿で「いちばん安い、ベンツくださ〜い」。

あっけにとられている社員を横に、妻はカタログを取り出して「CDチェンジャーはオプションか」。

きちっとネクタイをした真面目そうな社員は、言う。あのう、ベンツでしょうか?

哀れみを込めた目で私の足元をじっと見ている。あっ、ビーチサンダルのまま来ちゃった。

おいおい、このTシャツ、ペンキが付いたままだぜ。よそいきのTシャツ、なかったのか。

あらま、黒の短パン、はきつづけてるから、もう灰色になってるぞ。新しいの、ないのか。

奥の方では上品そうな初老の夫婦がコーヒーなど飲みながら商談している。ウチら、立ったまま。

こっちはアホバカですから、先のことをあまり考えてませんから。とにかく、ベンツ、ください。

できれば持って帰りたいんですが。テイクアウト、できますか。

過去はきれいさっぱり忘れて、明日を想い煩うことなく、いまを生きよう。

1996年7月

はじめての伊豆の夏である。ウララカ家にはクーラーが一台しかない。

業務用みたいな大きなヤツがリビングにあるだけ。東京のものすごい暑さを思い出し少し不安だった。

しかし、なんのことはない。多少、寝苦しい夜もあったが、問題なく夏を乗り切れた。

なにしろ夕方になると、どこからともなく涼風がやってくる。これが高原の風か。

昼は暑く、夜はスッと涼しくなる。これが本来の夏なのだ。気分、最高。

来客が3組あった。みなさん、一様に静かな環境をほめてくれる。

夏で暑いけど温泉に入っていただき、テラスで風に吹かれながらのビール。

和やかな酒宴。線香花火。主だった観光地のご案内。新鮮なアジの干物朝食。

「また、来るからね」。「うん、待ってるよ」。翌日から三日間、ウララカ家は接待疲れで寝込む。

ウチはサービス精神が旺盛なので、全力でおもてなしをする。なんだか気怠い夏である。


1996年9月

はす向かいに住むMさん夫妻と親しくなった。引っ越しのご挨拶は済ませてあるが、

その後は、とくに親しくなるということもなく、挨拶程度の淡いおつきあい。

ウララカ家にとっては、理想的な関係である。人嫌いではないが、人好きでもない。

庭のことで立ち話をするようになり、そのうちテラスでお茶を飲むようになった。

語るともなく聞かせてくれたMさん夫妻経歴。ふたりとも元官僚。ご主人、勲四等。

ごく普通のリタイアした優雅なオジサン、オバサンかと思っていたら、おやおや。

しかし、ウララカ家の人間は、相手が誰であろうが、ひれふすことも、へつらうこともない。

いま、そこにいる人間を見るだけだ。堅い人とは、あまりつきあいのない私だが、

突っ込んだ話をするにつれ、彼の自由闊達な精神が見え始めて、うれしくなってきた。

Mr.Mは言う。「私の最大の失敗は、公務員という仕事を選んだことだ」。

各地を自由に旅しながら暮らしたかった。できることならニュージーランドで暮らしたい。

向こうも若輩者の私を気に入ったのか、その後もずいぶんと可愛がっていただいた。

Mさん夫婦といっしょに箱根の和風オーベルジュにごはんを食べに行く間柄になった。

植物もたくさんいただいた。お礼に高い木の剪定の真似事もしてあげた。

70代半ばの年齢なので、もしも木から落ちたりしたら大変だ。

そこの枝を切れ、あの枝をもう少し短かめに。いろいろ注文がうるさいが、まあ、いいか。

彼の趣味、釣りをやるなら、もう使わない竿がたくさんあるからプレゼントするという。

ありがたいが釣りはやらない。同じ場所に何時間もじっとしていることができない性分で。

では、油絵をやらないかと誘われる。いえ、私は水彩画のほうなので。

そうか、ならばゴルフは、どうだ。それなら少々。明日いこう。ゴルフ場までクルマで3分。

Mr.Mと、彼の知人の同じくリタイア組のSさん、私。よく晴れた絶好のゴルフ日和。

午前9時、ティー・オフ。私は、第一打を打つ前から相手の実力がわかる。

ゴルフバッグとクラブ、素振りの様子などを見れば、ほぼわかる。こちらはHDCP7。

バブル時代、不動産屋、証券マンなどを相手に、幾多の賭けゴルフを勝ち抜いてきた強者だ。

実力の違いは明白。のんびりと楽しむことにしよう。老人組、アプローチなどの小技は、さすが。

歩く速度が速いのが気持ちいい。ゴルファーで最低なのがプレイの遅い人。彼らは颯爽としている。

なんだか会長・社長のお守りをしながらゴルフをしている総務部長みたいだが、楽しい一日だった。

1996年12月

ガスストーブが燃えはじめ、居間の一隅にコタツがだされた。

ウララカ家にとって、ことしは激動の一年であった。

めまぐるしく時間が過ぎていった。ウララカ家はこうした変化を楽しんでいた。

なにかと不便なことも多いが、すでに私はこの町が好きになり始めていた。

一刻も早くこの土地に馴染みたいと願う。自分が住む土地を愛せないで、どうする。

これからここで、どんなことが起きるかわからないが、そのすべてを受け入れよう。

明日を、もっと楽しく過ごすために、きょう、努力しよう。

ウララカ家は、元気でやっています。1996年、伊豆高原、冬。

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